■2013年03月
■「明と暗」を両方抱える苦悩。
主治医から、こんなことを言われました。
「大丈夫だよ。
君が思っているより、
君は社会にちゃんと馴染めているから。
君が思っている以上に、
君は普通に見えているのだから。」
私という人間は、
「自分自身に
完全に二極化した思考と人格がある限り、
「自分が抱える違和感への矛盾」に対して、
これからも悩み続ける。」
…のかもしれません。
私というBPD(境界性人格障害)は、
「何度「まぁ。いいか。」と思っても、
ふとした瞬間気付く「自分の異常性」によって、
「二極化した少しおかしい自分」という現実に、
引き戻され続ける人間。」
…のよなうな気がします。
そして
「まぁ。いいか。」と思えるようになった今の私は、
「「まぁ。いいか。」と、
「いや。やっぱりダメでしょ。」という、
二極化した気持ちを、
揺れ動くことに苦しみを抱えている人間。」
…なのかもしれません。
そんな私は、
こんなことを思っています。
「やっぱりBPD気質が抜け始めると、
一気に「生きづらさ」が自分を襲ってくる。
今まで無視し続けていた、
「自分の生きづらさ」を、
直視しなくてはいけない状態に入る。
私は数年前の前回もこの感覚に驚いて、
半ばパニック状態になっていた。
「BPDな自分と離れること」は、
私にとってハッピーではない気がする。
物分かりが良くなりすぎた今の私は、
自傷行為全盛期だった20代に対して、
「懐かしさと羨ましさ」を感じている。
そして私はそんな過去の自分に対して、
「いいなぁ。羨ましいなぁ。」と呟く。
そして私は、
「こんな時手首を切ったら、
一瞬だけでもスッキリするだろうに…。」
…と感じて苦しみを自分で抱えている。
「苦しんでいる自分を抱きしめる」というのは、
本当に苦しいことだ。
自他を傷つけても平気でいられたあの頃に、
一瞬でいいから戻ってみたい。
一瞬だけでいいから。」
BPD全盛期の私は、
「好き放題に自他を傷つけ、
薄っぺらな人間関係の中で、
適当に遊びまわる子供。」
…だったのかもしれません。
しかし最近の私は、
「自分が構築してきた人間関係の
「薄っぺらさ」に気付いてしまうようになり、
「自分を見ている周囲のひと達」に、
戸惑いを感じるようになった。」
…のです。
そしてそんな周囲のひと達の感覚は、
「明るく気立ての良い、
みんなから好かれるお姉さんキャラの私」
…というBPDとは真逆の姿だったのです。
私というBPDは、
「いくらリストカットをしても、
いくら自傷行為をしても、
いくら依存症に走っても、
それを社会に見せずに必死で隠し通してきた。」
…のだと思います。
そして私は、
「そんなネガティブな自分を隠すかのように、
明るく元気で社交的な自分を演じていた。
自傷行為にも必死で、
演じることにも必死すぎた人生だった。」
…のです。
でも今の私は、
「ネガティブでもなく、
ポジティブでもなく、
低空飛行で穏やかな人格。」
…を得ようとしています。
そして私は、
「みんなの前で元気にはしゃぐより、
こっちの方がナチュラルのような気がする。
ナチュラルというよりも、
「落ち着く」のかもしれない。
今の私が「落ち着ける自分」を得たから、
穏やかなのかもしれない。」
…と思っているのです。
しかし私の周囲にいるひと達は、
「少し精神的に
病んでいるところもあるけれど。
「明るく元気なところ」が、
本来の彼女(私)なのだろうな。
早く昔のような状態に戻って、
みんなに元気を振り撒いて欲しい。
みんなを引っ張ってくれる、
明るいお姉さんに戻って欲しい。」
…と感じているようです。
そして私はそんな周囲のひと達に、
「あなた達が見ている
「明るく元気な私」は偽物の姿なのだよ。」
…と思うようになってきたのでした。
そんな私は、
「明るく元気な自分」を慕ってくれる、
自分の周囲のひと達に、
こんなことを思っています。
「私という人間は、
あなた達が思っているように、
「裏表がなく明るい人」ではなくて。
「明るい性格と社交的な部分」を、
パーフェクトに演じ切っていた。
本当に私は「女優」だった。
自分が演じていることすら忘れる程、
パーフェクトに演じ続けていた。
でも私は演じ終えた後、
あなた達の前から去った後、
「何とも言えない虚しさ」を感じた。
そして私は大声で笑った後、
「自分は何をやってるんだろう。」と、
心のなかでドライに呟くこともあった。
でも今の私は、
「心がボロボロだから笑えない自分」を、
やっと受け入れるようになった。
「こんなに心がボロボロなのだから、
別に無理して笑う必要ないよな。」と、
自分の心に正直になってきた。
だから私は、
もうあなた達を喜ばせることは、
難しい状態になっているのかもしれない。
あなた達の為に必死で明るく振る舞うことは、
私にとっての自傷行為なのかもしれない。」
先日私は、
20年来の友人と話す機会がありました。
そして彼が突然話し始めたのは、
「自分の奥さんがDVをしてきた。」
…という被害のカミングアウトでした。
でもそんな彼の話を聞いていると、
こんなキーワードが出てきたのです。
・DV
・暴力
・自傷行為
・リストカット
・アームカット
・アルコール依存症
・見捨てられ不安
そして私はそんな彼の話を聞きつつ、
「…あれ?それって?」
…と思いました。
その奥さんは、
「病院やカウンセリングで、
「何らかの診断名」を付けられた人ではない。」
…のです。
しかし私は、
「彼の話を聞けば聞くほど、
「過去の私と同じだよな。」と思い、
唯一共通しないところは、
「アームカットだけだよな。」と思ってしまった。」
…のでした。
そして私は、
「診断名は何でもいいのだけれど。
過去の私の話を聞いているようだ。
自分の悪口を言われているかのように、
その奥さんの行動は過去の自分と似ている。」
…と感じていたのです。
そんな私は面倒だったので、
「あれ?
私の手首にリストカット痕あるの…
知らなかったっけ?
私が精神科に入院したのって、
自傷行為が止まらなかったからなの。
あなたには教えてなかったっけ?」
…と言ってみました。
すると彼は、
「かなり驚いた声を出し、
「えぇ!?そうなの?」と言ってきた。」
…のです。
私は自分の主治医から、
「依存症のパーフェクトマスター」
…と呼ばれています。
そして最近の私は、
時々こんなことを思うのでした。
「私という人間は、
自傷行為とか、依存症とか、
虐待とか、DVとか、いじめとか、パワハラとか…。
そういう話が始まると、
結果的に「自分の話ですか?」という、
何とも微妙な状態になってしまう。
「私」という人間は、
社会のトラブルと自傷行為、
そして依存症関係に対して、
「無関係なものがない」という、
何とも不思議な状態になっている。
そして機能不全家族に関しても、
ほとんどのことが自分に関係している。
そんな私に無関係なのは、
「自殺完遂だけ」なのかもしれない。
その他のネガティブな行動化(acting out)は、
全てやり尽くしている。
というか。私という人間は、
「ほとんどのことをやり尽くしたからこそ、
今こんなに穏やかになれた。」のかもしれない。
正直なところ、
「やり尽くした結果、飽きて諦めたついた。」
…と言えるのかもしれない。」
私の友人知人でも、
「女性からのDV被害者になっている男性。」
…はとてもたくさんいます。
でも私は、
「成人してからの交際相手からは、
自分がDVをされ続けていた。
でも自分が学生時代は、
「男子生徒を自分で殴る蹴る」という、
常識ではあり得ないいじめをしていた。」
…という被害者でもあり加害者なのです。
そしてそんな男子いじめに
没頭していた私にとっては、
「女性加害者のDV(男性被害者のDV)は、
特に驚くことではない。」
…のかもしれません。
でも私の友人達は、
「男も女もみんなが、
「私。DVされてるの…。」と、
痛々しいカミングアウトをしてくる。」
…のです。
そしてそんな彼女達(彼ら)は、
「私が
「DVを含めた様々な暴力の、
被害者であり加害者でもあった」という、
真実を知らずに相談をしてくる。」
…という滑稽な状態になっているのでした。
「女で暴力とか…あり得ないでしょ。」
確かに「あり得ない」と思います。
と言いますか、
「暴力は、
男だろうが女だろうが、
「やってはいけないこと」
「女だからあり得ない」という、
歪んだ固定概念自体が「あり得ない」。」
…のです。
私という人間は、
「主治医に言われているとおり、
「社会に馴染みすぎている」」
…のかもしれません。
でもそこには、
「自分の心の闇(病み)と傷を隠す為の、
必死で完璧すぎる演技と努力がある。」
…のだと思います。
私はもしかすると、
「「穏やかになった冷静な自分」が、
「明るい自分」と「真っ暗な自分」を、
ドライに観察している人間。」
…なのかもしれません。
そして最近の私は、
「人前で明るく振る舞うこと」が、
バカバカしいのかもしれない。
自分の心の傷を隠すなんて、
今まで必死で生きてきた自分に失礼だ。
明るい自分を演じて傷を隠すから、
「必死で生きてきた自分」が、
突然暴れ出してしまうのだろう。
そんな自分を恥じている自分がいるから、
封印された「真の自分」が、
反乱を起こしてしまうのだろう。」
…と感じています。
今の私は、
「ほとんどの
自傷行為や摂食障害が減少し、
「それなりに普通に生活出来る」という、
穏やかで前向きな人生になってきた。」
…ような気がします。
しかし私はどんな日でも、
「「死にたい」と思わない日はない。」
…のです。
どんなに楽しく仕事をしていても、
「突然「死にたい」という言葉が、
自分を闇で覆い尽くしてしまう。」
…という人間です。
でも私がBPDというか、
心にたくさんの傷を抱えている限り、
「「死にたい」という感情と、
これから先もずっと、
共存していかなければならない。」
…のかもしれません。
そして私という人間は、
「「死にたい」という闇の間に見える、
僅かな光を楽しみにしながら、
僅かな光に生きる希望を感じながら、
自分の細すぎる命を必死で繋いでいる。」
…のだと思います。
私が今直面しているのは、
「「明るく演技する自分」が作り出した、
「偽物の自分だけ」を愛してくれる、
薄っぺらい人間関係への苦悩。」
…です。
でも私がBPDである限り、
「「しょうがない」のかもしれない。」
…と思っています。
そしてそれが、
「ちゃんとした人間関係を構築出来ない、
人間とのコミュニケーションが出来ない、
「不器用な私という人間」の性。
自分が撒いた種によって、
勝手に苦しんでいる自分らしい悩み。」
…なのかもしれません。
そんな私は今日も、
「「生きたい」という想いと、
「生きることが面倒臭い」という想いと、
「死にたい」という想いの中で、
揺れ動く葛藤と戦っている。」
…のかもしれません。
そしてBPD気質が抜けてきた今の私は、
「二極化している自分が、
「その場しのぎ」行った社交的な演技によって、
自分自身の首を締めている。
「薄っぺらな関係」だと気付かない友人知人から、
「明るい自分を期待されること」によって、
首を締め続けられている。」
…ような気がします。
私という人間には、
下記のような様々な人格が存在しています。
・インナーチャイルド
・とても静かで穏やかな人格
・自傷行為や依存症が大好きな人格
・非常に強い権力を持っている人格
でも今の私は、
「各人格がどんな性格を持っていても、
「それが自分」なのだと思う。
私はこの人格の1つも捨てることは出来ない。
なぜなら彼らは、
「主人格の私に欠けているところ」を、
抱えて生きてくれているのだから。
このような人格の全てがあるから、
「私」という人間が生きているのだから。
「明るい自分」だけでは、
「もう既に死んでいた」と思うから。」
…と感じています。
私達BPDは、
「状態が良い時だけ愛され、
状態が悪くなると「敵」とみなされる。」
…ということが多いです。
しかし私達は、
「「良い自分」と悪い自分」に
分かれているからこそ生きている。」
…のだと思います。
そしてそんな私達や家族が、
「「悪い自分(状態や人格)」を否定することは、
「私達に「死んでください」という、
攻撃をしているのと同じ意味合いがある。
どちらも愛せなければ、
それは「愛している」ということにはならない。」
…のかもしれません。
私自身も、
「「ネガティブな自分」に対して、
苛立ってしまうことも多々ある人間。」
…です。
しかし私は、
「「良い自分」よりも、
「悪い自分」を可愛がることが、
私達にとって最も大切なことなのだろうな。
「良い自分だけを歓迎すること」は、
私達の心の闇(病み)を深くするだけなのだろうな。」
…と思いながら生きている次第です。
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